原爆被爆都市 長崎 ~長崎で学ぶ平和学習~ 知ることからつながる、平和への道 ~命の尊さを教える被爆地・長崎の平和学習~

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原爆被爆都市 長崎

平和への願いが込められた平和公園の千羽鶴平和への願いが込められた平和公園の千羽鶴

この美しい街、長崎になぜ原爆が落とされたのでしょう?
誰もが悲しく、そして疑問に思うことですが、この出来事をきちんと知らない人も多いようです。しかし、唯一の被爆国である日本人ならば、知らなくてはならないでしょう。なぜなら、戦争、そして被爆による惨禍の記憶を風化させてはならないからです。そして、これからの時代を背負う若い世代が戦争と核兵器の恐ろしさを知ることで、被爆について正しく認識しなくてはならないからです。この学びによって、恒久平和への願いを新たに共有していくために、よりよい未来をつくっていくために――。

長崎の鐘長崎の鐘

8月9日「ながさき平和の日」――平和を祈念して長崎の鐘が鳴る

8月9日は「ながさき平和の日」です。毎年この日には平和公園において長崎原爆犠牲者慰霊平和祈念式典が行われています。被爆者やご遺族、市民、青少年たち、そして総理大臣をはじめ世界各国の代表も参列し、原爆が炸裂した午前11時2分、「長崎の鐘」が鳴らされ、参列者全員が1分間の黙とうを捧げます。

この式典は何のために行われているのでしょうか?
それは、長崎の人々が被爆の悲惨さを忘れないため、そして、「核兵器は存在してはならない。長崎を最後の被爆地に。」という長崎市民の願いを世界に向けて発信するためです。

近代日本の歩み――富国強兵から軍備増強、日清・日露戦争へ

日本はなぜ戦争をしてしまったのでしょうか。それを知るためには、近代日本の歩みを振り返る必要があります。江戸時代の鎖国政策が解かれ明治に入ると、新政府は日本の近代化を目指し「富国強兵」そして「殖産興業」を推し進めました。それに伴い、貿易港として発展していた長崎は造船の街へと変化していきました。19世紀後半に入ると、西欧諸国やアメリカ、ロシアなどのアジア侵略が強まり、日本も朝鮮に進出しなくては列強の植民地にされる恐れがあると考え、「軍備増強」を図ります。

1894年には日清戦争がおこり、戦勝により台湾を獲得。しかしロシアらの要求により獲得した遼東半島を返却させられることになりました。清における義和団事件の鎮圧の際に出兵したロシアが、事件後も満州に大軍を駐屯させて、韓国まで進出したことで、1904年に日露戦争が起こりました。1914年には第一次世界大戦が欧州を中心に4年余り続きました。その後は欧州の復興による日本製品の輸出の減少などにより、日本の景気は低迷し、失業者があふれます。この不景気を解決するため、豊かな資源のある中国を支配するべく、満州にいた日本軍が1931年に満州事変をおこしました。そして翌年満州国をつくり、政治の実権をにぎりました。

長崎港上空から市内中心部と周辺地区を望む(長崎原爆資料館蔵)長崎港上空から市内中心部と周辺地区を望む
(長崎原爆資料館蔵)

太平洋戦争へ突入――8月9日午前11時2分、長崎上空で原爆が炸裂

満州進出後、日本はさらに大陸へと侵入して、日中戦争へと発展していきました。ヨーロッパではドイツがまわりの国へ攻め入り、イギリスやフランスと対立するなどして、全面戦争へ突入。アメリカとの日中戦争打開の交渉もうまくいかず、1941年の12月8日に真珠湾攻撃を行い、太平洋戦争が始まりました。

太平洋戦争へ突入すると戦争関連の産業が主体となっていき、多くの学生が動員されました。日本は初めのうちは東南アジアや南太平洋の島々を次々と支配していきましたが、資源に勝るアメリカが攻め返し、不利になっていきました。

1944年になると日本はアメリカから空襲を受けるようになり、1945年3月にはアメリカが沖縄に上陸して、地上戦が行われました。そして同年8月9日、長崎市に原子爆弾が投下されてしまったのです。

コラム

原子爆弾の誕生――

長崎に投下された原爆は、長さ約3.25m、直径約1.52m、重量約4.5t。その大きさから「ファットマン(太っちょ)」と呼ばれた。主な原料はプルトニウムで、その威力はTNT火薬21キロトンの爆発力に相当する。

原子爆弾とはどのような兵器なのか?

原子爆弾(原爆)はウランやプルトニウムといった原子に中性子を衝突させたときに原子核が分裂し、中性子が飛び出すと共に、巨大なエネルギー=「核エネルギー」が発生するという現象を利用した核兵器です。爆発すると火の玉ができて、すさまじい熱線と放射線が出され、熱であたためられた空気が膨張し、激しい爆風が起こります。

なぜ原子爆弾が作られたのか?

アメリカは、ドイツが核エネルギーを使った新型の爆弾を作っているのではないかと恐れ、原子爆弾(原爆)を作る「マンハッタン計画」を1942年8月に始め、その3年後に原爆はできました。

なぜアメリカは日本に原爆を投下したのか?

ドイツを脅威に感じて原爆を作ったアメリカでしたが、原爆が完成する前の1945年5月にドイツは降伏。戦争が終盤になり、アメリカは原爆を日本に投下することを検討します。その理由としては、大規模な予算と人員を投じて作った原爆の力を調べたかった、また早く日本を降伏させるためにやむなく投下した、アメリカがソ連に対する威嚇の意味もあったなど、さまざまな説があります。

長崎はその日の第一目標の都市ではなかった――天候不良の影響

原爆を投下する都市を決めるとき、日本の軍隊や工場などがある都市、そして空襲による被害のない、原爆の威力が確かめられる都市として東京や京都を含めた17都市の中から、最終的に広島・小倉・長崎が投下目標となりました。長崎には、三菱重工長崎造船所があり、世界最大の戦艦『武蔵』などが作られ、軍事的な意味からも目標となっていました。

アメリカは1945年7月に原爆の実験をしたあと、8月6日、広島に原爆を投下しました。
3日後の8月9日、アメリカの爆撃機B29は小倉に原爆を投下する予定でしたが、小倉の上空は天候不良で雲に覆われていたため、予定を変更して第2目標の長崎に向かいました。そして、高度9,600メートルから原爆を投下したのです。
8月9日の雲の存在が長崎の運命を大きく変えたといえます。

目覚町から岩川町電車沿線を望む 小川虎彦(長崎原爆資料館蔵)目覚町から岩川町電車沿線を望む
(長崎原爆資料館蔵 撮影者:小川虎彦)

原爆投下による甚大な被害――熱風・爆風・放射線による被害

原爆が投下された当時、長崎の人口は約24万人でしたが、原爆によって1945(昭和20)年12月末までに73,884人が亡くなりました。74,909人が負傷し、原爆の熱線・爆風・放射線による原爆症が人々を苦しめ、生きのこった人でも時が経つにつれてさまざまな病気になり、今でも苦しんでいる人がいます。

溶けた6本の瓶 (長崎原爆資料館蔵)溶けた6本の瓶 (長崎原爆資料館蔵)

熱線による被害――焼けただれる、身体が炭のようになる

原爆が爆発した時に直径約280mの火の玉ができ、表面の温度は太陽と同じくらいになりました。原爆が投下された近くでは、燃えるものすべてが火をふきました。人々の皮フは熱線を浴び、焼けただれてはがれ落ちたり、身体が炭のようになるなど、通常のやけどでは考えられない被害をもたらしました。

爆心地の瓦 岡田寿吉 (長崎原爆資料館蔵)爆心地の瓦(長崎原爆資料館蔵 撮影者:相原秀二)

爆風による被害――建物は押しつぶされ、火災が広がる

爆風の強さは爆心地直下で秒速440m(非常に強い台風の10倍)、風圧6.7~10tというものすごい力がはたらき、爆心地から1km以内では木造家屋が粉々に壊されました。建物は押しつぶされたり、吹き飛ばされたりしました。建物の下敷きになってたくさんの人が亡くなり、壊された窓ガラスのかけらが人の体にささりました。また、熱線と爆風によって、火災も発生して広がりました。

放射線による被害――爆発と共に放出。「死の灰」による後遺症が襲う

原爆が他の爆弾と異なる点は、爆発の時に大量の放射線が放出されるという点です。原爆の放射線は人の身体に入り細胞を破壊することから、身体器官の働きが悪くなるなどの病気になります。原爆の熱風でけがをしていなくても、放射線を受けたために多くの方が亡くなりました。原爆が爆発した時に出された放射線の他、爆発した時の燃え残りの物が地上に降下した「死の灰」や、これが混じったものが雨となった「黒い雨」など、残った放射線で被害に遭った人もいます。

  • 浦上天主堂(長崎原爆資料館蔵)浦上天主堂(長崎原爆資料館蔵)
  • 長崎放送局から市街を望む 小川虎彦 (長崎原爆資料館蔵)長崎放送局から市街を望む
    (長崎原爆資料館蔵 撮影者:小川虎彦)
  • 城山国民学校(長崎原爆資料館蔵)城山国民学校(長崎原爆資料館蔵)

献身的な救護活動――九州各地から救護隊が駆けつける

爆心地に近いところは、火事や爆風で建物が破壊され、多くの亡くなった方や重傷を負った方がいました。当時長崎市内でもっとも設備の整った長崎医科大学は爆心地から約500mのところにあり、大きな被害を受けてしまいました。そこで、県内はもとより、九州各地に、救援・救護隊をお願いし、次々と救護隊が長崎にかけつけました。

当時の国民学校(小学校)は救護所となり、多くの負傷者が運び込まれました。また、けが人を諫早や大村方面に運ぶために、救護列車が走りました。しかし、あまりのけが人の多さに治療が間に合わず、薬も十分になかったため、次々に亡くなる人は増えていきました。それでも献身的な救護活動が続きました。

山王神社 林重男 (長崎原爆資料館蔵)山王神社(長崎原爆資料館蔵 撮影者:林重男)

焼け野原から復興へ――草木が生えないといわれた地に芽が出る

浦上地区は、焼け野原となり、ほとんど何も残っていませんでした。当時、この地にはこれから70年の間、草木が生えないだろうと言われていました。しかし、9月に入ると、かすかに草木が芽を出し始め、その下には、虫たちの姿がありました。人々は、生きる希望を見出しました。やがて人々は、壊れた建物の木材などを集めて小屋を建て住み始めました。翌年になると、市営住宅も建ち始め、町はようやく活気を取り戻していったのです。

現在の原爆資料館現在の原爆資料館

平和祈念像平和祈念像

核兵器廃絶と世界の平和をめざして――長崎の地からメッセージ

被爆を体験した長崎市民は、何より平和への強い願いを持っています。戦後は「平和は長崎から」を合言葉に、国際文化都市をめざして町づくりがはじまりました。

1951年には平和公園が整備され、併せて園内に1955年には「国際文化会館」(現在の原爆資料館の前身)が建てられるなど、国際文化都市の象徴となる整備が進められました。世界中の平和を願う人々の寄付金によって、「平和祈念像」が5年の歳月をかけて制作され1955年に平和公園に建てられました。
平和祈念像は、神の愛と仏の慈悲を象徴し、右手は原爆の脅威を、左手は平和を、軽く閉じた目は原爆犠牲者の冥福を祈っています。

被爆地および平和祈念のスポット

浦上天主堂遺壁

信者の方々が30年の歳月をかけレンガを積み上げて完成

(所在地)長崎市松山町2400-3

鐘楼ドーム

すさまじい爆風で崩れ落ちたドームを当時のまま保存

(所在地)長崎市本尾町1-79

防空壕跡

爆心地から700m。多大な被害を受けた山里国民学校の防空壕

(所在地)長崎市橋口町20-56

  • 浦上天主堂
  • 鐘楼ドーム
  • 防空壕跡

城山小学校平和祈念館

爆心地から500m。甚大な被害を受けた城山国民学校に平和祈念の展示

(所在地) 長崎市城山町23-1

山王神社の大クス

熱線と爆風で一時枯れ木同然となったにも係わらず蘇った

(所在地)長崎市坂本2-6-56

坂本国際墓地

永井隆博士やグラバーなど多くの人々が眠る

(所在地)長崎市坂本1-2

  • 城山小学校平和祈念館
  • 山王神社の大楠
  • 坂本国際墓地

平和祈念像地区

平和の泉や世界各国から贈られたモニュメントが並ぶ

(所在地) 長崎市松山町 平和公園内

  • 平和祈念像地区

コラム

自ら被爆しながら、多くの被爆者を救済した人永井隆博士

  • 永井隆博士の病室兼書斎「如己堂」永井隆博士の病室兼書斎「如己堂」
  • 恒久平和と隣人愛の精神を発信し続けた永井隆博士恒久平和と隣人愛の精神を発信し続けた永井隆博士

長崎医科大学の助教授であった医師・永井隆博士は、自ら被爆しながら献身的に被爆者の救護にあたりました。

長崎の象徴である平和祈念像の近くに、2畳1間の小さな木造の住居があります。永井博士はこの小さな庵を「己の如く人を愛せよ」との聖書の言葉より「如己堂(にょこどう)」と名付け、ここで晩年を過ごしました。

白血病に倒れ病に伏しながらも執筆を続けた永井博士は、実質4年半で「ロザリオの鎖」「この子を残して」「生命の河」「長崎の鐘」などの小説や随筆など次々に発表。「長崎の鐘」、「この子を残して」は映画化、また、「長崎の鐘」はレコード化もされ、戦後の名曲として今に歌い継がれています。

如己堂(所在地)長崎市上野町22-6

平和を語り継ぐ人ボランティアガイド 船井サナミさん

船井サナミさんは、長崎の町を歩く人々にボランティアガイドで、原爆資料館・平和公園周辺で一般の人や学生たちにガイドをしています。

「私たちが歩いている足元には、まだ多くの被爆遺構が残されていて、亡くなった方のお骨も埋まっています。原爆は過去のものではなく、現実のものであるということを実感してもらうことが大切だと思って、このガイドの活動を行っています」。

サナミさんは北九州小倉から長崎に引っ越してこられて、仕事帰りのバスの中で被爆した方から原爆が落ちたときの様子を聞いてショックを受けました。この出来事が忘れられず、退職後からガイドをなさっています。

原爆は他人ごとではなく、実際に起こったこと。それを実感してもらうこと、そして平和とは自分たちで作り守っていかなくてはならないことを伝えるために、ガイドの活動を続けています。

船井サナミさん船井サナミさん

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