長崎ならではの学習テーマ ~長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産~ 「長崎の奇跡」とまでいわれる教会群には、どんな奇跡があるのでしょうか。250年もの間、信仰を守り続けた潜伏キリシタンの思い、その背景と信仰の自由が許されるまでの長い道のりを辿ってみましょう。

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長崎ならではの学習テーマ

原爆被爆都市 長崎

心を惹きつける長崎の教会群。厳しい弾圧の中、心の灯をつないだ14資産。

キリスト教は1549年に西洋から日本に伝えられ、広まる時代、禁止されて隠れて信仰する時代を経て
現在は再び自由に信仰できる時代になっています。
禁止されていた時代には厳しい弾圧があり、キリシタンにとっては受難の時代でした。
ここでは長崎にあるキリスト教関連施設を紹介しながら、その歴史を学んでいきます。

長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産の構成資産

長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産の構成資産

大浦天主堂と教会群(あっ!とながさき)で詳しくみる

日本におけるキリスト教の主な歴史

時代西暦日本でのキリスト教の歴史経緯
室町時代 1549 フランシスコ・ザビエルが日本にキリスト教を伝える 西洋文明の伝播と
キリスト教の普及
第1章へ
1550 ザビエルが平戸で布教を開始する
1563 大村純忠が初の「キリシタン大名」となる
安土・桃山時代 1582 天正使節団がローマへ行く
1587 豊臣秀吉が伴天連追放令を発布 キリスト教の弾圧 第2章へ
1597 日本二十六聖人殉教
江戸時代 1612 徳川家康が全国に禁教令発布
1637 島原・天草の乱 勃発
1657 大村藩の郡崩れ
1805 天草崩れ 潜伏キリシタンによる
信仰の継承
第3章へ
1805 ペリー来航
1864 外国人居留地に大浦天主堂が建てれらる
1865 信徒発見
1867 浦上四番崩れ
明治時代 1868 五島崩れ
1873 明治政府が信仰の自由を認める キリスト教の復活

第1章  西洋文明の伝播とキリスト教の普及

ザビエル来日。ザビエルってどんな人?

ローマ教皇の使節としてインドに派遣され、布教活動をしていたフランシスコ・ザビエルが鹿児島に上陸したのが1549年の夏のこと。43歳の時でした。翌年の1550年、ポルトガル船が入港した平戸に赴き、領主の松浦隆信に布教を願い出て許されました。この頃の平戸はポルトガル、中国などとの貿易の要所であり、領主の松浦隆信は貿易に大変熱心でした。隆信はポルトガル船を歓迎し、ポルトガル人が敬愛するザビエルの布教を許したのです。長崎における南蛮貿易とキリスト教布教の始まりでした。平戸が世界地図に記されたのもこの頃です。

フランシスコ・ザビエルは1506年、スペイン・バスクの貴族階級に生まれ、パリ大学で哲学を学んだ後にインド、東南アジア、日本にキリスト教を伝え広めるために航海の旅に就きました。43歳で熱病によって中国の上川島に倒れるまで布教に生涯を捧げ、東洋の信徒と讃えられるカトリック教会の聖人です。危険な航海を経て言葉も文化も分からない未知の国々を訪れ、しかも異教徒や時の為政者からの迫害など多くの困難に立ち向かいながら布教を広めたザビエルの情熱と信念。その源はただただ篤い信仰心に由来するものなのでしょうか。ちなみにザビエルが日本人の優秀さを世界に知らせようとしていたことが、ローマ教皇に示した日本布教のシナリオに記されています。

広く海外進出に臨んでいた大航海時代の西洋と、当時の戦国時代の日本

南蛮人来朝之図(長崎歴史文化博物館蔵) 織田信長

15世紀から17世紀にかけてのヨーロッパは領土拡大のため、スペイン、ポルトガルを中心に航海ブームが起きていました。ローマ教皇も海外侵略を後援。なぜなら16世紀初頭から宗教改革が起き、カトリックとプロテスタントが対立。海外での新たな信者獲得のため、カトリック強国であるポルトガル、スペインの航海船に使命感溢れる宣教師を連れ添わせ、領国が獲得した領土の住民への布教活動を開始しました。そういった背景のもと、ザビエルが来日した1549年当時の日本は戦国時代の末期。群雄割拠を経て1560年には桶狭間の戦いがあり、織田信長の勢力が台頭していきました。

写真左:南蛮人来朝之図(長崎歴史文化博物館蔵)
イラスト右:織田信長

長崎開港。布教の本拠地として栄え、
東の小ローマと呼ばれた華やかな時代

キリシタン文化の痕跡を伝える「花十字掌紋瓦」

ザビエルが去った後も、残された宣教師たちによって布教活動が続けられ、その要請によって1570年、長崎港が開港しました。開港とともに長い岬の台地に6つの街(島原町、平戸町、大村町、横瀬浦町、外浦町、分地(文知)町)が誕生しました。南蛮船が出入りし、教会が建てられ、東の小ローマと称されるほどに、華やかなキリスト教文化が花開いていきました。けれどこれは、ほんのひとときのこと、やがて織田信長に代わって政権を握った豊臣秀吉の伴天連追放令、徳川時代に入っての禁教令のもと、これらの街は跡形もなく壊され、姿を消すことになります。

写真:キリシタン文化の痕跡を伝える「花十字掌紋瓦」
(サント・ドミンゴ教会跡資料館蔵)

日本初のキリシタン大名、
大村純忠

キリシタン文化の痕跡を伝える「花十字掌紋瓦」

大村純忠は、天正遣欧少年使節を送り出した大名の一人。備前(佐賀県)島原の戦国大名、有馬晴純の二男として生まれましたが、隣国の大村純前の養子として家督を継ぎ18代当主に。三城城主。1563年に家臣25名とともに洗礼を受け、日本初のキリシタン大名になりました。純忠が統治する大村領は当時、日本で最も多くのキリスト教徒が住んだとされ、ポルトガルとの貿易によって発展していきますが、それをよく思わない周辺の国々から守るため、1570年、純忠は長崎を開港し、さらに1579年には長崎・茂木をイエズス会に寄託しました。純忠は仏教徒や寺社を冷遇する一方で、一羽の小鳥でも主の慈悲のもとに命を与えられたのだからと大切にしたと伝えられます。1587年に没した1カ月後、豊臣秀吉による伴天連追放令が発布されました。

写真:キリシタン文化の痕跡を伝える「花十字掌紋瓦」
(サント・ドミンゴ教会跡資料館蔵)

コラム

天正遣欧少年使節顕彰之像

西洋への憧れを少年使節団に託した純忠。
ヨーロッパ全土で歓迎された天正遣欧使節団

敬虔なクリスチャンであり、長崎港を開いた純忠には西洋への憧れがあったと思われます。海の向こうの西洋と呼ばれる国々に行ってみたい…その夢を伊藤マンチョ、千々石ミゲル、原マルチノ、中浦ジュリアンら少年使節に託したのではないでしょうか。13歳前後の若者たちは、ザビエルが辿った海路を2年5カ月にわたって遡り、過酷な航海を経てポルトガルのリスボンに上陸。ローマ教皇をはじめ絶大な歓迎を受けたと伝えられます。イタリア各地には今も少年たちの記念碑や絵画が残されており、この4人の少年たちが日本の文化を海外に伝えた最初の日本人でした。

写真:天正遣欧少年使節顕彰之像
大村純忠をはじめとするキリシタン大名の名代としてヨーロッパを訪れた4人の少年たちの偉業を顕彰する(大村市)

第2章  キリスト教の弾圧

日本が支配されることを恐れ、秀吉は伴天連追放令を

天正遣欧少年使節顕彰之像

長崎を中心に広まったキリスト教への風当たりがだんだんと強くなっていきました。時の権力者たちは当初、南蛮貿易から得る利益を優先していましたが、やがて信仰の力を恐れるようになります。1つはヨーロッパのオランダやポルトガルなど西洋の国々がキリスト教を広めつつ日本を支配するのではという侵略への疑念、もう1つは平等を説くその教えや信者の団結力が権力者の独裁支配体制と矛盾することです。豊臣秀吉はキリスト教が天下統一を妨げることを懸念して、1587年に伴天連追放令を発令しました。

1597年、西坂にてキリシタンの大殉教―― 26人を処刑

西阪の丘に佇む殉教した二十六聖人のレリーフ 二十六聖人記念聖堂

発令した伴天連追放令にもかかわらず、宣教師の篤い布教と信者たちの信仰が揺るぎない状況に業を煮やした秀吉は、長崎の西坂でフランシスコ会の宣教師やイエズス会の修道士、信者ら26人を処刑しました。京都や大阪で捕えられた26人は長崎まで1カ月をかけて歩かされ、西坂の丘で十字架に架けられたのです。それはみせしめのためでもありました。秀吉は自分の権力と禁教の意思を知らしめるために、キリシタンの街として栄えていた長崎を処刑地としたのでした。 この26人のキリシタンの内、最年少は尾張出身のルドビコ兄弟。弟はまだ12歳でした。幼い子どもを処刑することを憐れんだ役人が、踏絵を踏んだら命を助けると助命の手を差し伸べましたが、天国に行けるのだからとそれを断り、2人は毅然と死に臨んだと伝えられています。のちの、どのような迫害や弾圧にも屈せず、密かに信仰をつないだ隠れキリシタンにつながる信仰の強さ・深さを想わせる逸話です。

写真左:西阪の丘に佇む殉教した二十六聖人のレリーフ
写真右:二十六聖人記念聖堂

1612年、徳川幕府が禁教令発布

徳川家康

徳川家康が天下を統一して徳川幕府の時代になると、幕府は朱印船や糸割符(いとわっぷ)制度を創設して、外国との貿易を統制管理するようになりました。ポルトガル、オランダ、イギリスも日本との貿易に参入。その拠点である長崎は大いに繁栄しました。「東の小ローマ」といわれた時代です。 けれど、それは長くは続きませんでした。キリシタンと豊臣の残党が結びつく可能性、イエズス会と長崎奉行との対立やスキャンダルなど、確固とした幕閣体制を築きたい幕府は宣教師やキリシタンへの不信感をつのらせていきます。1612年、徳川幕府は天領に禁教令を発布。続いて1614年、全国でのキリシタン摘発が始まりました。

改宗を迫って厳しい拷問や踏絵を

徳川家康

幕府は長崎港の監視を強めて、宣教師の潜入を阻止すると同時に摘発と処刑を強化。彼らをかくまった一般の信徒にも厳しい処刑を行い、長崎、大村、島原などでは多くのキリシタンが命を落としました。
1616年、島原領主となった松倉重政は、幕府から咎められて当初のキリシタン黙認を迫害へと転じます。弾圧は雲仙地獄の熱湯を浴びせたり、額に切支丹の焼き印をつけるなどの拷問によって棄教を迫る残酷なものでした。従わない者は容赦なく殺されました。

写真:雲仙地獄の拷問によって殉教したキリシタンを慰霊する殉教碑(雲仙市)

宗教史上例のない悲劇
123日間にわたる「島原の乱」

島原の乱後、徹底的に破壊された原城跡(南島原市)

幕府の禁教令に真っ向から反旗を翻した一揆が、1637年から1638年にかけて起きた「島原の乱」。島原・天草の領民3万7千人が、島原半島の原城に立てこもり、3カ月間の籠城の末、幕府軍によって皆殺しになった事件です。
近年の発掘調査によると乱後、原城は徹底的に破壊され、キリシタンそのものを封印するかのように人骨と石垣が混在して埋められ、土で覆われていました。全滅した村も多く、土地の荒廃を防ぐため幕府は小豆島や築後から領民を移住させたと伝えられます。宗教史上にも例のない大悲劇が起きた背景には、この時代ならではのいくつかの要因が重なっていました。1つは、島原藩主・松倉勝家の過酷をきわめた政治です。凶作にもかかわらず強引な年貢の取り立てをしたこと。この圧政に耐えかねての蜂起であると同時に後押しした力となったのが、この地域のキリシタン信仰でした。

写真:島原の乱後、徹底的に破壊された原城跡(南島原市)

日本初のキリシタン大名、
大村純忠

天草四郎

島原の乱のように、自らの理想のために私利私欲を捨て、殉教も厭わないキリシタンと、そのように民を導いたキリスト教は支配体制を固めつつあった徳川幕府にとって廃せねばならぬ大敵でした。キリシタンの取り締まりは諸藩への統制への強化であり、この後、幕藩体制は盤石となっていくのです。

写真:天草四郎

キリシタン大名、小西行長の遺臣・益田甚兵衛の子として天草に生まれ、幼いころからカリスマ性があり、聡明で、慈悲深く、容姿端麗なことから島原の乱では一揆軍の総大将となり、十字架を掲げて軍を率いたと伝えられています。一説に長崎の生まれとも。

第3章  潜伏キリシタンによる信仰の継承

そして深く静かに…250年の沈黙

そして深く静かに…250年の沈黙

1639年、幕府はイエズス会との結びつきが強かったポルトガルとの交易を断絶して鎖国。沿岸の警備も徹底され、もはや宣教師たちの入国はどのような手段でもかなわず、幕末までの約250年間、キリスト教は幻の宗教となりました。
その昔、そのような信仰があったことさえも消された深い沈黙の年月…誰もが思いもしませんでした。様々な姿かたちに隠して、または風土の中に土着させて信仰を守り続けた潜伏キリシタンの存在を。その後250年間という年月をつないでいくことを。

コラム

潜伏キリシタンとは――外海、五島列島などで、仏教徒を装い、信仰を続けた

江戸時代の初期、外海、浦上、天草などの信徒たちは幕府の摘発を逃れるために表社会では仏教徒として生活し、内面的にキリスト教を信仰する潜伏キリシタンとなりました。天照大御神や観音像をマリアに見立てたり、その地域の言葉で祈りを捧げたり、それぞれに独自の信仰の形を形作っていったのです。江戸時代後期には外海地方にいた潜伏キリシタンたちが五島列島に移住し新しく潜伏キリシタンの集落を作っていきました。明治になって禁教令が撤廃された後も、このような潜伏時代の信仰形態を継承した人々を、かくれキリシタンと呼んでいます。

写真下:外海歴史民俗資料館の様子

外海歴史民俗資料館の様子

外海歴史民俗資料館の様子

幕末の開国によって迎えた「信徒発見」

大浦天主堂

幕末、黒船の訪れと前後して、様々な国から開国を迫られた日本。日仏修好条約が結ばれると、長崎の居留地にはフランス人が居住するようになり、1864年、長崎の南山手に華麗な尖塔を持つ大浦天主堂が建てられました。1865年に献堂式が行われると、1カ月後、大浦天主堂に十数人の日本人が訪れました。その中の1人の女性がプティジャン神父に「マリアの像はどこですか?」と訊ねました。禁教はまだ続いていましたが、神父に信仰を告白したのです。浦上の潜伏キリシタンと神父との再会の瞬間でした。禁教令から250年後…宗教史上の奇跡と言われる「信徒発見」です。

写真:大浦天主堂

禁教令を解除

明治時代になっても、キリシタン弾圧は続きました。この状況が変ったのが1873年。「信仰の自由がない国は野蛮な国である」と諸外国から多くの非難を浴びました。これを受けて明治政府はようやく禁教令を解除しました。そして出津教会堂や大野教会堂など長崎には数多くの教会が建てられました。

出津教会堂

写真:出津教会堂

大野教会堂

写真:大野教会堂

コラム

ド・ロ神父像

私財を投げ打ち外海の信者のために尽力。
ド・ロ神父の生涯

1840年、フランスヴォスロール村に生まれ、1863年に来日し1868年に長崎(大浦天主堂)へ来た後、1879年に外海に司祭として赴任しました。宣教をはじめ、社会福祉、農業開発などに力をつくしました。そして74歳の生涯を終えるまで1度も故郷に帰ることなく、私財と身につけた学問、技術のすべてをこの地に捧げました。

写真:ド・ロ神父像

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